彼女のお父さんから言われた条件は、医師になることをあきらめて、お父さんの会社を継ぐことでした。
僕にとっては、医学部に入学することは、簡単なことではありませんでした。たとえ、愛する女性のためでも、医師になる道をすてることはできませんでした。
解決の糸口はないものかと息の詰まる雰囲気の中で、考えをめぐらしましたが
すぐに答えが出せるものではありません。
しかし、すぐには、お父さんにわかってもらえないとしても、今の自分の気持ちだけでも伝える必要はあると思いました。
お父さんの迫力のある太い声とは対照的に僕は蚊の鳴くようなか細い声で、
彼女に対する今の気持ちを伝えました。娘さんと結婚したいと。
お父さんは、表情ひとつ変えることはありませんでした。お父さんが勧める見合い話に、気乗りがしない娘の態度から、僕が、そのことを伝えに来たことくらいは、
重々承知していたのですから、驚いた表情をすることは少しもありませんでした。
部屋の隅にたたずむ彼女の顔には、夕日が届かず、陰になっていました。薄明かりの中で、彼女は祈るような気持ちであったと思います。私を見つめる彼女の目には、私への申し訳なさそうな気持ちと、変わらず不安な気持ちが、入り交じっていました。
しかし、同席していた彼女のお母さんだけはその瞬間に少し微笑んだような
気がしました。わたしが、言った言葉は線香の煙のように、かすかな香りだけ残してなかったかのように、かたい張りつめた部屋の雰囲気の中ですぐに希釈されてしまいました。
誰も返事をすることはありませんでした。しばらくの沈黙のあとに、口火を切ったのは、やはり彼女のお父さんでした。
(つづく)